中町4丁目・5丁目町会HPへようこそ!!

     中町4丁目・5丁目は、世田谷区玉川地域の中心部に位置しています。

 多摩川の支流となる谷沢川が流れ、街の高台からは富士山が望め、二子玉川

 の花火が良く見えます。

 街には、緑が多く、春になると谷沢川沿いには桜、ハナミズキが咲き、中心

 部に、 “玉川中町公園”があり、子供たちの遊び場、住民の憩いの場となって

 います。

 また、公園に隣接して、“中町ふれあいの家”があり、多くの住民のコミュニ

 ケーショ ンの場として利用されています。

中町の紹介

町会の区域

中町4・5丁目町会の対象区域は

世田谷区中町4丁目6〜14・24〜32、5丁目全域

となります。

昭和22年、38年当時の中町の地図が見れます。

下記、”中町の地図”をクリックし、画面上部にある”古地図”、”昭和22年又は38年”、”地図を重ねる”を選ぶと、当時の地図が見れます。

”中町の地図”を見る。

世帯数・住民数

                          令和5年4月1日 現在

 地  域 世帯数 住民数(単位:人)
総数 男性 女性
   中町4丁目            1,241   2,904

    1,405

    1,499
   中町5丁目    1,736

  3,544

       1,584        1,960
       総  数

   2,977

     6,448        2,989        3,459
   世田谷区全域   494,707     917,705    434,343    483,362

・世帯数・住民数は、住民基本台帳に基づく。

・町会の会員世帯数、人員ではありません。

地名の由来

 中町は、昔「野良田」と呼ばれる村でした。

「野良」は草などが茂っているところを言い、野良を開墾して水田が開かれるなどして、「野良田」と呼ばれるようになったと思われます。

 明治22年、それまでの奥沢・尾山・等々力・下野毛・上野毛・野良田・用賀・瀬田の8村が合併して玉川村が成立し、野良田村は玉川村大字野良田となりました。

昭和7年、世田谷区成立時に、玉川村大字野良田は玉川中町1・2丁目となりました。ちなみに、玉川中町の“中町”は、玉川地域の中心という意味でつけられました。

昭和44年2月、住居表示の実施に伴う町区域の変更で、周辺の町との間で境界の整理が行われて、中町1~5丁目に区画され、現在の中町4丁目・5丁目となっています。

 

【 参考】

「世田谷の地名」(世田谷区教育委員会、平成元年3月発行)

「世田谷、町村のおいたち」(世田谷区区長室広報課、昭和57年10月1日発行)

玉川中町公園の周辺には”池”があった!!

 昔の「野良田村」は、8つの区域に分かれており、現在の中町4丁目、5丁目は、“高山”、“丸山”、“谷際”という地域でした。

 “谷際”という地域は、現在の玉川中町公園・谷沢川周辺で、そこには“谷の池”(約170㎡)、“田向池”(約100㎡)の小さな二つの池がありました。

池の周辺には、人が入れないほど密集した太い茎の葦(あし)が茂っており、突然、鳥が飛び出して人を驚かす事がありました。

少し上の岸に近い所には柳や桜の木があり、春の花や秋の紅葉が綺麗でした。特に、夏の夕立の後、夕陽に映える右岸の檜(ひのき)林の濡れた葉の緑の清々しさは、池の面に「小波さえ起こさせなかった」と云われていました。

池は、今の玉川中町公園の辺りから用賀に向かってガソリンスタンドの少し先まで広がり、瓢箪(ひょうたん)の形をしていました。上の方には谷沢川が流れ込み、雨が沢山降った時は遊水地になり、春になると田畑の灌漑用水になりました。

この池も、太平洋戦争が始まる少し前、昭和13、14年頃に耕地整理のため埋められ、その後は住宅が建てられ、多くの人達が移り住みました。

 また、 “高山”という地域は、現在の東急ブランズシティ(旧NTT社宅跡地)の辺りで、小高い山があり湧き水が流れ、松の木や欅(けやき)、桜なども多く、山肌には茅(かや)や萩の間に栗、櫟(くぬぎ)の雑木があってウサギやイタチが西陽の指す斜面を遊びまわっていました。

 

【参考】

 中町商店街 小史 

中町に伝わる「姫の滝伝説」

 現在の中町は、かつて「野良田」という地名でした。

 この「野良田」には、谷沢川が流れていて、ここに「野良田の滝」があり、この滝には「姫の伝説」という悲しいお話があります。

 “昔、都からはるばる武蔵野に探勝に来た貴族の若い男が、道すがら玉川の里にやってきました。そして領主の館に暫く滞在しました。そこには、心優しく美しい姫君がいて、二人は何時しか恋に落ちて堅く夫婦になる事を誓い合いました。

やがて、この貴族の男が帰る日が来てしまい、再会することを約束して都に帰って行きました。しかし、その後、姫が待てども待てども、この貴族の男からは何の便りもなく、何年経ってもこの地には帰ってきませんでした。そして、ついに悲しみに沈んだ姫君は、野良田の滝壺に身を投げて恋の苦悩から脱しました。”

というお話でした。この伝説から「野良田の滝」を「姫の滝」、また、そこの橋を「姫の橋」と呼ばれるようになりました。

しかし、この「姫の滝」も昭和13年(1938年)の水害によって崩壊してしまい、復旧はなりませんでした。

 現在、谷沢川の上野毛通りを超えた下流に、「姫の橋」と「姫の滝の石標」として残っています、

 

【参考】

「ふるさと世田谷を語る(用賀・上用賀・中町(野良田)」

(世田谷区総務部文化課 平成4年発行)